荒川十太夫

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役者絵:渡辺 謙

荒川十太夫【あらかわ じゅうだゆう】…堀部安兵衛不破数右衛門の介錯人。


伊予松山藩の徒目付(かちめつけ)。代々剣術指南役を務める家柄。

切腹直前、安兵衛は後ろに控えている介錯人・荒川十太夫を振り返り「ご身分は?」と問いかけたという。十太夫は慌てず「ご心配なく」と応えたが、安兵衛はこちらを見たままなので「お馬廻役、二百石でござる」と続けた。お馬廻役二百石というのは堀部安兵衛の身分。

後日、十太夫らは酒宴の場で殿様から「とっさの時によくぞ申した」特別の褒詞があったという。

荒川十太夫や宮原久太夫(木村岡右衛門大高源五の介錯人)らの剣士はその後、義士の位牌を作り、松山に持ち帰って子々孫々に至るまで供養を絶やさなかったと言い「本家に行けばたぶん位牌が保管されている」と、荒川十太夫のご子孫、I氏がおっしゃっておられました。


講談

荒川十太夫は浪士が討ち入り後お預けになった松平隠岐守(おきのかみ)さんのところで介錯をやった、三両五人扶持という身分の低い侍。

介錯する段になって安兵衛が十太夫に、「閻魔の庁で土産話にするから」と名前と身分を聞いてきたが、あんまり自分が低い身分なんで、それじゃ悪いんでとっさに「あ…物頭役をつとめまする」と嘘をつく。安兵衛はありがたがって死んでいったが、言っちゃった手前、十太夫は、忌日には身分の高い侍のコスプレをして墓参した。費用は団子の串を削るバイトでまかなっていた。

上司に見つかって最初は官職詐称を詮議されたが事情を知った殿様がそのかいがいしさに打たれ「謹慎のあと、マジで物頭役に取り立てよう」と辞令をくれた。

安兵衛の忠義が余ってほかのひとの徳になったという珍しいおはなし。

「誉れの三百石」


荒川重太夫


伊予松平藩のことを伊予久松藩とやる講談もあるが、久松は旧姓で、元禄時代では「松平」。

もともとは家康のお母さんの再婚先が久松さんなんだそうですが、親戚待遇で「松平」姓を許されたそうです。そもそも有力大名に松平姓をくれたんですね(<賜姓(しせい))。明治時代になって旧姓の久松に戻すまでは「松平」でやるのが正解。


講談の「妙海法尼」には、殿様、党中の菩提を弔うために信州の善光寺まで旅に出た妙海が道中の茶店で、これまた旅の途中の十太夫と蜂合わせる物語がある。


※講談には「安場一平」というこれによく似た話しがあり、大石内蔵助の介錯をした安場一平がモデルとなっている。大石が首を切られる前に役職について嘘をついてこたえる場面がそっくりであるが、安場の身分は「足軽」となっている。

安場一平は実在する人物で、実際は「御歩頭(おかちがしら)」200石取りの身分ある侍です。

義士を手厚くあつかった細川家においては格式ある侍が介錯担当に選ばれたことが記録に残っているそうで、武士でもない、身分の低い足軽が介錯をまかされることは考えられない。

「神田松之丞 講談入門」で知ったが、「小田小右衛門(おだこえもん)」という同工異曲の話もさらにあるらしい。こちらも大石内蔵助の介錯人。上記「安場一平」は実在の人物だが、こっちは架空なうえに、やはりあり得ない足軽設定。ともかく、そうとう気に入られているストーリーラインであります。


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