大高源五
大高源五【おおたか げんご】…風流キャラ。俳号「子葉(しよう)」。
12月14日の吉良屋敷で茶会があることを宝井其角、または山田宗遍(やまだそうへん)から聞いた人。
彼には江戸下りのときに伊豆で馬子・国蔵に言いがかりをつけられ、詫び状を書かされたエピソードがあるが、芝居などでは神崎与五郎のアクシデントとして書かれ、そっちのほうが有名である。
「義士大観」によると橋本綱常男爵(医師)が「神崎は大高に比べて逸話がないから」と講談師にアレンジをアドバイスをしたために生まれた誤伝としてある。
ちなみに大高が書いた詫び状は現存しているとも言われる(画像↓)。
内蔵助は浅野大学を主君に仰いだかたちでの、つぶれた赤穂藩の再興を幕府に願い出ていたが、結局それは叶わず、元禄15年夏頃「ナシ」と決定。ここに至って討ち入りを決意する。しかし、長い間待たせた藩士たちの覚悟が変わっていないかを確認するため、先年交わした決意の念書「神文(しんもん)」を一度返却することにする。
この返却は方便で、実際はその時に黙って受け取る者をメンバーから外し、覚悟を持つ者を見極める内蔵助の計画だった。この役目を託されたのが、貝賀弥左衛門とともに大高源五である。(神文返し)
(「決算!忠臣蔵」では、神文返しを、予算の都合によるリストラとしている。)
江戸潜伏中は、煤竹(すすだけ:すす払いに使う笹)売りとか京都呉服屋新兵衛とか。
討ち入り前日、雪の中いつものようにボロはんてんを着て煤竹売りの扮装で吉良邸に呼び込んでもらおうとしていたが「引っ越しから3年は竹を入れない」という風習から作戦は失敗。しょうがないから風流に両国橋の上で寒さにめげず雪景色を眺めていると、浪人する前の俳句友達の宝井其角とバッタリ会う。「子葉先生、このたびはお家の大変の噂を聞いて心配してたんですよ。訪ねてくれたらよかったですのに」と声をかけてくれる。「やぁもうこんな姿ですし」「"風流は貧しきにあり"なんておっしゃってたじゃありませんか。風流は相変わらずですか?」と其角は鼻紙に矢立の筆を染めて
「年の瀬や水の流れも人の身も」(とか「人の流れと人の身は」)
と、前句をする。「どうぞ附句を」と渡された源五はしばらく考えて
「あした待たるるその宝船」
と返す。宝井は句の意味をあれこれ考える。
忠臣蔵ではおなじみの句だが、俳諧師によるとへんな句のやりとりだそうで、実際のふたりの附け合いは「草も木もこうなるものか冬枯れて」「明日待たるる銀のさかづき」というものが本当だそうでございます。
(そうかと思うと、大高「日の恩やたちまち砕く厚氷」其角「月雪の中や命の捨てどころ」と返すバージョンもある)
其角は大高の駄句にはなはだあきれて、羽織をめぐんだりして別れるが、あとで句の謎を松浦候(吉良家の隣人)に「討ち入り決行の暗喩」と解いてもらって納得&反省。
討ち入り当日松浦家に挨拶に来た大高に、その場にいた其角は誤解を詫びる。
実際(?)討ち入りのときにお隣の土屋さんちに挨拶に行ってるとか。
また、講談では「中でも大高源五殿 得てたる掛矢引っ提げて 手もなく砕く表門」と謳われるように、「武器が掛矢(かけや:でかいハンマー)」である表現をされるのが主流だった時代もあるようで(画像↓)、坪内逍遥先生もエッセイを寄せた随筆集で大高について「怪力の猛者」と称してる。
実際に討ち入りの際に引っさげていたのは大太刀(辞世の入った金短冊付き)や刀だそうです。
歌舞伎には、彼と宝井其角の交流を描く「松浦の太鼓」、義兄の話「腹切り魚の別れ」がある。
長唄「笹や節」は「笹や笹笹笹や笹笹」で始まり両国橋の別れを唄うが、赤垣源蔵や南部坂も歌詞に入ってテンコ盛り。
それをじゃっかんイメージした出だしの三橋美智也の歌謡曲「笹売り源吾」は愉快な曲(CD出てます)。
まんが「のらくろ軍曹」ではのらくろが演じ、煤竹売りではなくあんまになって吉良邸を散策した。
享年38。 大高源吾。