「身代わり忠臣蔵」の版間の差分

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 ラストの市街戦(というのが、まず忠臣蔵物では珍しいのだが)の「生首ラグビー」は周辺には、いささか戸惑いを感じた。でも、この映画の見どころなんだと思うが。
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 ラストの市街戦(というのが、まず忠臣蔵物では珍しいのだが)の「生首ラグビー」周辺には、いささか戸惑いを感じた。でも、この映画の見どころなんだと思うが。
  
 もちろん生首で遊ぶという行儀の悪さも引くのだが(いにしえより敵将の首には敬意を払うのがふつう。長屋のヤクザや飲んだくれが死体にカンカンノウを踊らせるのとは身分&民度が違うはず)、そもそも、邸内で自分ところの殿様の首を取られたのを目の当たりにして用人たちがいったんは戦闘を諦めたのに、死んだ[[清水一学]]が(なぜか)よみがえって、引き揚げ中の四十七士と乱闘を(なぜか)蒸し返す。この決着がまちなかでの吉良の首をボールに見立てたラグビー試合(風)なのだが、コメディとしての締めくくりに、なにか派手なギャグをラストに持ってきたいという気持ちはわからないでもないが、こういう筒井康隆チックな遊びじゃなきゃいけなかったんだろうか?
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 もちろん生首で遊ぶという行儀の悪さ自体も引くのだが(いにしえより敵将の首には敬意を払うのがふつう。いくら笑ってほしいからといって長屋のヤクザや飲んだくれが死体にカンカンノウを踊らせるのと同列にしちゃいかんです)、そもそも、邸内で自分ところの殿様の首を取られたのを目の当たりにした用人たちがいったんは戦闘を諦めたのに、死んだ[[清水一学]]が(なぜか)よみがえって、引き揚げ中の四十七士と乱闘を(なぜか)蒸し返す。この決着がまちなかでの吉良の首をボールに見立てたラグビー試合(風)なのだが、コメディとしての締めくくりに、なにか派手なギャグをラストに持ちこみたい気持ちはわからないでもないが、こういう筒井康隆チックな遊びじゃなきゃいけなかったんだろうか?
  
 それまでが首ラグビーのギャグをすんなり受け入れられる系統のブラックな流れでもなかったように感じるし…
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 それまでが生首ラグビーのギャグをすんなり受け入れられる系統のブラックな流れでもなかったように感じるし…
  
 ともかくそれ以降、終わったと思ったら終わってなかった、みたいなもたつきを何度か感じた。たぶん好き嫌いのわかれる&大いに客を選ぶ終盤シークエンス。
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 それ以降、終わったと思ったら終わってなかった、みたいなもたつきを何度か感じた。たぶん好き嫌いのわかれる&大いに客を選ぶ終盤シークエンス。
  
  

2024年2月20日 (火) 22:52時点における版

作品概要
制作会社 東映
公開年度 2024年
内蔵助役 永山瑛太
評価 3ツ星


京王線新宿駅ホームの広告

(ネタバレ御免)


 おもしろかった。

 「嫌われ者の殿・吉良上野介(ムロツヨシ)が江戸城内で斬られ、あの世行き!斬った赤穂藩主は当然切腹。だが、殿を失った吉良家も幕府の謀略によって、お家存亡の危機に!! そんな一族の大ピンチを切り抜けるべく、上野介にそっくりな弟の坊主・孝証(ムロツヨシ)が身代わりとなって幕府をダマす、前代未聞の【身代わりミッション】に挑む!」

 …東映の公式ホームページより抜粋


 長いあいだ愛されてきた義士伝のエピソードをアレンジするのではなく、最近にありがちな、あらためて赤穂事件を素材に遊びましょう、という作品なので、忠臣蔵ファン的な視点でアレコレ言ってもしょうがないし、番宣見てたときからこれは「ムロツヨシさんを楽しむ映画」だとわかってたんで、彼がどうのびのびと演じるのかが見どころで、それはうまく行ってたと思う。

「もしも松の廊下の刃傷で吉良が死んでいたら」で出来る遊びをいろいろ試せてると思うし、笑いもしたし、ホロリもした、豪華なコント。

 戦後の「珍説忠臣蔵」以来の徹底的な喜劇・忠臣蔵映画は歓迎したい。


 このストーリーはウォーレン・ベイティの「天国から来たチャンピオン」みたいな、イヤなじじいに別人が憑依する(本作の場合は身代わりだが)ことでそのパーソナリティが変わり、これまでそのじじいを敬遠してた人たちの心変わりや周囲の環境の変化とともに、ハートウォーミングなラストへ流れ込んでいくパターンなのだが、せっかくオリジナルの吉良を徹底した「傲慢でイヤミたっぷりな」「わるぐちを大声で言う」(<セリフより)ようなキャラにして、身代わりになったあとは「(お陰で)お家全体が明るくなった」(<セリフより)つってるわりに、なぜかもともと吉良邸内では家来に慕われるような描写があったり、子供たちがなついてきたりするシーンがあるから、身代わり前後のコントラストが弱く、言ってることとやってることの矛盾、ブレをいささか感じた。

 それを身代わりになってる弟に「兄は殺されて当たり前」とセリフでいちいち何度も蒸し返させて補完しようとしてたが、このへんのバランス、難しかったのかもなあ。

 かくして劇中の吉良邸のスタッフにも映画鑑賞者にも良い人として受け入れられちゃった吉良の不可避な「死」を、どういうプロセスでゴールインさせるのかなーと思ってたが、その工夫はおもしろかった。


 そーだなー…


 ラストの市街戦(というのが、まず忠臣蔵物では珍しいのだが)の「生首ラグビー」周辺には、いささか戸惑いを感じた。でも、この映画の見どころなんだと思うが。

 もちろん生首で遊ぶという行儀の悪さ自体も引くのだが(いにしえより敵将の首には敬意を払うのがふつう。いくら笑ってほしいからといって長屋のヤクザや飲んだくれが死体にカンカンノウを踊らせるのと同列にしちゃいかんです)、そもそも、邸内で自分ところの殿様の首を取られたのを目の当たりにした用人たちがいったんは戦闘を諦めたのに、死んだ清水一学が(なぜか)よみがえって、引き揚げ中の四十七士と乱闘を(なぜか)蒸し返す。この決着がまちなかでの吉良の首をボールに見立てたラグビー試合(風)なのだが、コメディとしての締めくくりに、なにか派手なギャグをラストに持ちこみたい気持ちはわからないでもないが、こういう筒井康隆チックな遊びじゃなきゃいけなかったんだろうか?

 それまでが生首ラグビーのギャグをすんなり受け入れられる系統のブラックな流れでもなかったように感じるし…

 それ以降、終わったと思ったら終わってなかった、みたいなもたつきを何度か感じた。たぶん好き嫌いのわかれる&大いに客を選ぶ終盤シークエンス。


 ともあれ、救いようのない悪漢・吉良上野介の描写(生前も死後も)には、吉良びいきのかたがたにおかれては、いろいろ罰当たりに映る気の悪いとこもあったかと、お察しいたします。




附言)ほんとどうでもいいアレコレ

 …おっぱいを直接に触りたいなら襟元から手を突っ込むのではなく、絶対に身八つ口のほうが楽だ思うんだけどな…。とか、高尾太夫とはまたベタな(&忠臣蔵と無関係だが落語や浪曲の「紺屋高尾」で有名な)名前を引っ張ってきたもんだな。とか、やりたい設定を成立させるためにずいぶんとアレコレどっさり省略したなあ。とか、四十七士がみんな面長で似た顔立ちなのはメインキャラを際立たせるためだろうか。とか、吉良のクビを包んだ布に現れる大根の切断面みたいな真っ平らのシルエットは、リアルさを避けようとした配慮だと思うが、さめるわ〜。

 ↑ でも…、書いてて思ったけど、どれもこれも徹底的に「わかりやすさ」を追求した腐心の結果なのかもなあと思いました。。