「菅谷半之丞」の版間の差分
5行目: | 5行目: | ||
「[[新春ワイド時代劇 忠臣蔵−決断の時|決断の時]]」では「ER」ルカ・コバッチュの声優てらそままさきが演じ、評定の場面でセリフがあったが、当時お城にいなかったとされる。 | 「[[新春ワイド時代劇 忠臣蔵−決断の時|決断の時]]」では「ER」ルカ・コバッチュの声優てらそままさきが演じ、評定の場面でセリフがあったが、当時お城にいなかったとされる。 | ||
− | + | 講談では、お城にいなかった理由を「父親からうけた勘当のため」としております。 | |
− | + | きっかけは父の後妻(つまり義理の母親だが、若い)お岩。この女が不心得者で、なにかと半之丞のかげぐちを言い、すっかり信じちゃった父親が半之丞を勘当する願書を内匠頭に再三提出。内匠頭は半之丞が悪いやつじゃないのを知ってるからお金と刀をくれて旅へ送り出す。 | |
− | + | 江戸に来て源治という昔なじみの魚屋の厄介で手習いの師匠をはじめる。 | |
− | + | 超イケメンだったので半之丞がお風呂に行くときはもう、近所のおかみさん、若後家、中年増、新造、娘、乳母さん、下女、子守り、ギャル、OLまでズラリと往来で出待ちをする始末。家主のオファーがあって娘のオフヂさんをめとる。 | |
− | + | そんなある日バッタリ会った[[千馬三郎兵衛]]から、国許で父親が変死したことを知る。聞けば父親の碁敵、奥州浪人の[[大須賀治郎右衛門|大須賀次郎右衛門]]と後妻がデキちゃって父親を毒殺したと言う。 | |
+ | |||
+ | 自分が浪人になるきっかけも作り、父親まで殺すとは〜!と、怨みを晴らすことを決意いたします。 | ||
+ | |||
+ | そして元禄14年3月14日、たまたま江戸城近辺で主家の大事を知り、間も悪く奥さんが産後の肥立ちが悪くて虫の息。赤ちゃんを抱いて赤穂へ駆けつけるが浪人は城に入れられんと言われるわ、赤ちゃんは死んじゃうわで(かわいそすぎ)、腹を切ろうとするところを「心底あいわかった!」と、内蔵助に帰参を許される。 | ||
+ | |||
+ | 江戸潜伏中に吉良家の大須賀の長屋から継母お岩が甘酒を買ってるところを発見。おのれ奸夫姦婦! | ||
+ | |||
+ | 討ち入りの時、裏門隊だったが、隊長の[[大石主税|主税]]に「仇討ち三昧、まことに恐縮ながら」と断って大須賀はそれがしにヤラせてくださいと許可を取り、みごと長屋において二人を槍でぶっ殺します。 | ||
+ | |||
+ | この話、お岩のセクハラがいやで外泊を続けてるうちに[[内匠頭]]のアドバイスで赤穂を出た。というバージョンもございます。 | ||
+ | |||
+ | 講談では菅谷は「父親」「主君」二重の敵討ちになっている。 | ||
+ | |||
+ | |||
+ | 街で評判のイケメンという設定の一方で、泉岳寺のおみやげの銘々伝には「非常にぶおとこで、どもりとあしなえとの三具足は一党中の第一人者である」と書いてある。 | ||
+ | |||
+ | 講談の本にも城明け渡しの後に、備後三次(みよし)の兄の岡本松之助のやっかいになり、ろうあ者で足が不自由なふりをしていたともあり、「障害者」的な設定も見受けられます。 | ||
+ | |||
+ | 谷中の長福寺という寺(住職の文良さんは[[近松勘六]]や[[奥田貞右衛門]]の弟)で寓居していたそうです。 | ||
享年44。 | 享年44。 |
2008年11月8日 (土) 19:43時点における版
菅谷半之丞【すがや はんのじょう】…仇が複数キャラ。
「決断の時」では「ER」ルカ・コバッチュの声優てらそままさきが演じ、評定の場面でセリフがあったが、当時お城にいなかったとされる。
講談では、お城にいなかった理由を「父親からうけた勘当のため」としております。
きっかけは父の後妻(つまり義理の母親だが、若い)お岩。この女が不心得者で、なにかと半之丞のかげぐちを言い、すっかり信じちゃった父親が半之丞を勘当する願書を内匠頭に再三提出。内匠頭は半之丞が悪いやつじゃないのを知ってるからお金と刀をくれて旅へ送り出す。
江戸に来て源治という昔なじみの魚屋の厄介で手習いの師匠をはじめる。
超イケメンだったので半之丞がお風呂に行くときはもう、近所のおかみさん、若後家、中年増、新造、娘、乳母さん、下女、子守り、ギャル、OLまでズラリと往来で出待ちをする始末。家主のオファーがあって娘のオフヂさんをめとる。
そんなある日バッタリ会った千馬三郎兵衛から、国許で父親が変死したことを知る。聞けば父親の碁敵、奥州浪人の大須賀次郎右衛門と後妻がデキちゃって父親を毒殺したと言う。
自分が浪人になるきっかけも作り、父親まで殺すとは〜!と、怨みを晴らすことを決意いたします。
そして元禄14年3月14日、たまたま江戸城近辺で主家の大事を知り、間も悪く奥さんが産後の肥立ちが悪くて虫の息。赤ちゃんを抱いて赤穂へ駆けつけるが浪人は城に入れられんと言われるわ、赤ちゃんは死んじゃうわで(かわいそすぎ)、腹を切ろうとするところを「心底あいわかった!」と、内蔵助に帰参を許される。
江戸潜伏中に吉良家の大須賀の長屋から継母お岩が甘酒を買ってるところを発見。おのれ奸夫姦婦!
討ち入りの時、裏門隊だったが、隊長の主税に「仇討ち三昧、まことに恐縮ながら」と断って大須賀はそれがしにヤラせてくださいと許可を取り、みごと長屋において二人を槍でぶっ殺します。
この話、お岩のセクハラがいやで外泊を続けてるうちに内匠頭のアドバイスで赤穂を出た。というバージョンもございます。
講談では菅谷は「父親」「主君」二重の敵討ちになっている。
街で評判のイケメンという設定の一方で、泉岳寺のおみやげの銘々伝には「非常にぶおとこで、どもりとあしなえとの三具足は一党中の第一人者である」と書いてある。
講談の本にも城明け渡しの後に、備後三次(みよし)の兄の岡本松之助のやっかいになり、ろうあ者で足が不自由なふりをしていたともあり、「障害者」的な設定も見受けられます。
谷中の長福寺という寺(住職の文良さんは近松勘六や奥田貞右衛門の弟)で寓居していたそうです。
享年44。