OSK日本歌劇団創立100周年記念公演レビュー春のおどり 特別版

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2022年6月30日 (木) 06:06時点におけるKusuo (トーク | 投稿記録)による版

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作品概要
制作会社 OSK
公開年度 2021年
内蔵助役 ---
評価 2ツ星


2022年6月に、前年1月に大阪松竹座で行われた「レビュー春のおどり」のようすがBS松竹東急で放送された。

奈良時代〜戦国〜江戸時代と、時空を越えて歌と踊りとお芝居で魅せてくれる。

もりいくすおが、圧倒的にOSKに詳しくないのと、「安兵衛駆けつけ」はあくまで全体の構成の一部(15分ほど)であることから、ここでうんぬん言うのはよそうと思っていたのだが、鑑賞後にどうしても、何日も引きずることがあったので、項目を設けました。

気になることとは…

トップスター桐生麻耶さんの演じる安兵衛は、黒羽二重と赤鞘の申し分のないかっこうで高田馬場を目指すのだが、このときに尻端折(しりはしょり)りをしていないのだ。

このことは多くの問題を示している。


安兵衛の「高田馬場」スタイルの起源は、中村仲蔵が考案したとされる(違うらしいのだが)、仮名手本忠臣蔵5段目の斧定九郎と言われるが、なぜ仲蔵のアレンジが評判を取ったかといえば、いろんな要素の中に「色気」があるのは言うまでもない。

鉄砲の弾を食らって口からしたたる真っ赤な血を、尻はしょりをしてあらわになった、真っっ白な太ももでびちゃびちゃ受ける、あのグロテスクなコントラストが超印象的なわけだ。

スタイルを踏襲した中山安兵衛(のちの堀部安兵衛)も、尻端折りでふんどしをなびかせて、八丁堀から都の西北まで駆け抜ける。バンツマなんか、ほんとうにこれが色っぽい。

余談だが、いつぞや、着物で出かけたとき、あたしが地下鉄構内から地上に上る階段を登っているその後ろから来る漫画家の伊藤理沙先生が「男の脚も、はだける着物からチラチラ見えると色気があるものだ」と言っていたことがある。事程左様に、ふだんは汚くてゴツゴツした種族が、色気を垣間見せる瞬間こそが「着物から見える脚」なのである。


さて、桐生さんにお話を戻すと、なぜその象徴的なカタチを再現しなかったのか、前後関係から見ても皆目わからず、ひじょうに不可解な気持ちで画面を見入った。

着物を着た経験のある人ならわかると思うが、前を開けないで走れないのが、着物である。下半身を布で巻いて6キロを走れるだろうか?衣裳として、演出としておかしいのだ。タキシードで銭湯の湯船に入る赤塚不二夫とか、タンクトップでゾンビの群れに立ち向かうちぐはぐを思い出した。

とにかくいろいろ考えた。

いまさらだが、OSKは、宝塚やSKDと同じく、演者はすべて女性である。言うまでもなく桐生さんも女性なのだが、桐生さんはほかの歌劇のスターと見比べても、ひじょうに男性的なダイナミックさを感じる人なのだが、ひょっとしたらおみ足は想像以上に女性的なので、演出を犠牲にしてでも、脚を隠し通すことで観客を混乱から守ろうと思ったのか…

それとも、とても観客には見せられない、なにか不都合な要素が脚にあるのか…(厳密にいうと、そうがんじがらめに見せないようにしているわけでもないのだが。)

OSKにかぎらず、この手の歌劇では、男役は脚を出さないというのが不文律なのか…

いや、それについては調べてみると、かつて宝塚の雪組が「幕末太陽傅」をやったときなど、早霧せいなの、着物から見えるふくらはぎを見てドキドキしたファンのブログが見つかった。ドキドキさもあろう、と思う。そこでは、こうしたことは和装だからこそのことで、男役の生ふくらはぎは滅多に無いとある。

チラッと見えるのはいいが、尻端折りとなると、出しっぱなしだからなぁ・・・


いやしかし、かえすがえすも、なかなかな「不完全」を感じる。

おそらく、やっている方も、演出側も、その「不完全」を悔いている気はする。とにかくなにかが仕方がなかったのだろう。(じゃあなんで、そのリスクを背負ってまで安兵衛駆けつけをやろうとしたのだろう)


実は、桐生さんの動作、というか馬場に急ぐ振りの中に、「気は心」と言った感じで、尻を端折ろうとするかのような所作が何度か出てくる。これが、意外にかわいらしい。「イメージ」として尻端折りを表現する「エアー尻はしょり」なのだ。やっぱ、なんか事情があったんだな。


ちなみに、馬場の助太刀に間に合った安兵衛が村上庄左衛門を斬ろうとしたその刹那、裃姿の「オオバヤシツキノカミ」なる人物が現れ(だれ?)、現場をウヤムヤにして終わり。そのままメロウでやさしげなエンディング曲(桐生さんはマツケンサンバみたいな衣裳に変わる)をみんなで歌い、第1部が幕となる。


SNSを覗くと、ファンの方には安さんが馬場に駆けつけるときのセカセカした歌が、記憶にこびりついているようで、なにより。