神崎与五郎

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プラモデル「詫び証文」
役者絵:本田博太郎

神崎与五郎【かんざき よごろう】…堪忍袋キャラ。


斬首になった武士の検死などする徒目付という低い身分。五両三人扶持(<年収。最下層)で徒目付になってるというのはなかなか働きが認められてるそうです。

風紀委員みたいにあら探ししてチクる役回りだそうで「武士の間ではうとまれる存在でございます(ミフネ大忠臣蔵)」。


松の廊下事件の前の晩、江戸城での吉良のイジメを見かねた彼は内匠頭に「すいません、拙者をクビにしてください。吉良を殺しますから」と申し出る。内匠頭は感動して「心配かけてすまん。終わるまできっと我慢するから」と約束する。(が、事件は起こる)

浪曲の逸話だが、五両三人扶持のヒトが江戸城に勤務して殿様と直接会話できるかはアヤしい(#^o^#)?


お家解散後は、諜報活動を熱心に続ける。麻布で「美作屋(みまさかや)善兵衛」を名乗り上杉家の麻布下屋敷を探った。その後前原と同居し「小豆屋善兵衛」。


メンバーの中では寺坂をのぞけば最下位の三村の「一個上」の身分だが、切腹するとき順番を間違われて最後に回され、不満をいいながら死んでいったという。


神崎が美男子らしかったことと、大酒飲みで「燗酒よかろう」というあだ名だったのはホントらしい。


享年38。


幼少期(講談本)

郡奉行の父、与左衛門は継父。

彼の実のせがれ与太郎(14)はバカ若さまで、目の不自由な祖母とふたりぐらしの孝行な村の子・太郎作(9)をカタナで追いかけ回してるウチにつまずいてひっくり返った時に腹に刀を突き刺して絶命。太郎作は虫の息の与太郎のトドメをさしてあげ、名主や村人とともに自首をする。

自分の息子を殺した咎で奉行の与左衛門はその場で手打ちにするとは言うが、首にカタナを当てただけで「お前の首は落ちた」とするにとどめる。彼は愚かな実のセガレのほうを捨て、この立派な太郎作を養子にすると宣言。お婆さんも引き取って扶助するのだった。

与太郎の死骸は太郎作の死骸と言うことで葬られ、、めでたく与太郎になった名前も不縁起と言うことで「与五郎」にあらためた。


神崎与五郎の堪忍袋

改易後「吉良邸の絵図面を手に入れよ」とか「この書状を江戸へ」という密命を内蔵助から受け江戸へ。

東下りの際、箱根(or浜松、三島宿)の甘酒屋で、酔っぱらった馬子の丑五郎(うしごろう)という男から「だんな馬に乗ってくれよ。うちのは奇態だよ。毛が生えてて足が4本。しかも歩くよ!」という営業ギャグトークに「馬が嫌い」とスルーしたことから「侍のくせに馬が嫌い?てめえ役者が化けてるんだろう!中山チン九郎とか言うンじゃねえか(チン九郎は三波春夫のオリジナル?)」とからまれるが、いつもは短気なのに「大事の前の小事(義挙の前の小事)」とグッとこらえて酒手(代金)を出し詫び状を書く。

字がマトモに読めないは「名前がカンサケ・ヨカロウ?俺が冷やで飲んでたからって燗酒が良かろうなんてダジャレ書きやがって!」と因縁をつけ、土下座までしてる神崎に痰を吐いて去っていく…

その後神崎が赤穂義士で討ち入りに成功をしたということを講談師(または瓦版売り)から知り、丑五郎は己を恥じて頭を丸め江戸の泉岳寺に出向き、墓前で非礼を詫びた。

以上「神崎東下り」「吾妻下り堪忍袋」


映像版ですと、グッとこらえるシーンには鞘と鍔(つば)にあらかじめこよりが結んであって、抜こうとするがハッとするシーンが時々ある。また、神崎を丑の股の下をくぐらせるシーンが見られることもある。両方とも講談や浪曲には出てこない。なにがオリジナルなのだろうか?後者は中国の「韓信の股くぐり」のアレンジと思われる。


比較的有名な逸話であるにもかかわらず、直接討ち入りの役にたつような手柄ではないためか、意外にテレビでは尺的にカットされるエピソード。

脚本家古田求(近年、どこのテレビ局からも忠臣蔵のオファーがある脚本家)氏に言わせると「丑五郎の後日談までセットだと思ってるので、それは忠臣蔵全体のバランスからいって盛り込めないので結局全部をカットしている」と談話していた。


もめてる最中に近所の花屋のおじさんが仲裁に入るバージョンがあり、店の二階に通された神崎は「あの男の言うことももっともじゃ」と丑五郎を面白がり、花屋の機転で詫び証文を書くにいたるエピソードがある。

この場合、神崎はあくまでサムライ然とした演出であり、土下座もしなければツバも吐かれない。


映画は戦前に「神崎東下り」というのが何本もあり、1956年東映でモノクロの「ほまれの美丈夫」などあるそうです。


この話は大高源五の逸話がアレンジされたとされるがどっちも虚説とされる。 でも講釈師は「今でも芸州家に堪忍三幅対として詫び状文が残っている」と見てきたような嘘をつく。


教訓「大きな志を持った者は、ささいな恥辱を意に介さない


矢作の鎌腹

もともと百姓の子だった与五郎は、江戸の落合村(芝居狂言の時は上州高崎の強戸村)で百姓をやってる兄・矢作宅へ身を寄せる。

庄屋の娘が与五郎の美貌に一目惚れ。求婚。しかし断られる。

庄屋はたまたま耳に挟んだ討ち入りのことを持ち出し、もし結婚が不承知なら代官所へ届け出ると交換条件を持ち出してくる。

矢作は弟・与五郎に本懐を遂げてもらいたいから、庄屋を鉄砲で撃ち殺し、自分は鎌で腹を切る。あとからすぐ駆けつける与五郎。

兄・矢作は「…首尾良く主君の仇を討ち、神崎という奴は土百姓(どんびゃくしょう)のセガレだがあっぱれ武士(さむれえ)の鑑(かがみ)だ、えれえやつじゃと言われるよう…ウ、ウーム」と言って絶命。(歌舞伎)

映画版に「誉れの陣太鼓」(57 東映)てのがあるそうです。


忠臣連理の鉢植え

師直邸に潜入捜査をしているガールフレンドおたかに焼き餅を焼く千崎弥五郎のハナシ。

講談にある堪忍袋のしっかりしたキャラでもなく、仮名手本のキャラでもなく、師直の妾として頑張ってるガールフレンドに対しナヨナヨ、メソメソ、ウジウジとしたヘナチョコな態度をくり返し、こっちは「これ、ギャグ?」ととまどいながらイライラするが、これぞ「和事」芸と言うそうで、「柔弱な男性」が象徴なのだそうだ。

それはともあれ、ずっと焼き餅をグズグスと焼かれたガールフレンドのおたかは、絵図面を弥五郎に渡したあと、自害する。

なーんだこれ?という印象のオハナシ。

天明8年公開の「義臣伝読み切り講釈」(全八段)がオリジナルなので、仮名手本や講談のキャラとはまた違うのであります。

ほかは廃れてしまったが、二幕目だけ「忠臣連理廼鉢植」というタイトルで残っているんだそうです。(歌舞伎)