「携帯忠臣蔵〜世にも奇妙な物語 映画の特別編〜」の版間の差分

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7ページくらいの、ホントに短編だが、とにかく、ふつうに'''面白い'''。ぶっちゃけ内容は映画とずいぶん違う。原作(原案?)がどう面白かったか話し始めると、また「携帯忠臣蔵」のどこがまずかったかのハナシが長くなりそうなのではしょるが、先に書いた「一方的に未来人が何度も同じ事を聴くためだけに電話かけてくるんなら、多機能が自慢の「携帯電話」である必要がまったくない」という部分とか内蔵助に交信してくる必然性は原作では見事にクリアされてる。簡単に言うと「携帯電話」ではなく「時間話」という、テレパシーに近い手段で未来人は交信してくる。その目的も映画よりはるかにばかばかしくて面白い。ラストもセンスがある。
 
7ページくらいの、ホントに短編だが、とにかく、ふつうに'''面白い'''。ぶっちゃけ内容は映画とずいぶん違う。原作(原案?)がどう面白かったか話し始めると、また「携帯忠臣蔵」のどこがまずかったかのハナシが長くなりそうなのではしょるが、先に書いた「一方的に未来人が何度も同じ事を聴くためだけに電話かけてくるんなら、多機能が自慢の「携帯電話」である必要がまったくない」という部分とか内蔵助に交信してくる必然性は原作では見事にクリアされてる。簡単に言うと「携帯電話」ではなく「時間話」という、テレパシーに近い手段で未来人は交信してくる。その目的も映画よりはるかにばかばかしくて面白い。ラストもセンスがある。
  
この短編が喜劇として成立してるのは、内蔵助が内蔵助然としているからだ。まじめに討ち入り決行しようとしてる人に、チョイチョイ未来から邪魔が入るからアンバランスで面白い。映画のように、おちゃらけたオッサンに携帯がかかってきても絵ヅラは「さもあろう」といったおもむきである。
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この短編が喜劇として成立してるのは、内蔵助が内蔵助然としているからだ。まじめに討ち入り決行しようとしてる人に、チョイチョイ未来から邪魔が入るからアンバランスで面白い(いわゆる緩急(かんきゅう)という、お笑いの基本であります)。
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映画のように、おちゃらけたオッサンに携帯がかかってきても絵ヅラは「さもあろう」といった意外性のないおもむきである。
  
 
おっと、いかん、結局映画の苦言が始まってしまった…。
 
おっと、いかん、結局映画の苦言が始まってしまった…。

2010年11月22日 (月) 14:00時点における版

作品概要
制作会社 フジテレビ
公開年度 2000年
内蔵助役 中井貴一
評価 1ツ星


いくらでも面白くなりそうな「忠臣蔵」「携帯電話」「タイムパラドックス」という三題噺を完全に台無しにしてしまった惜しい作品。


ストーリー:未来から大石内蔵助に一台、携帯が送られてくる。電話の向こうからは「歴史上のことがホントにあったのか調べるためにかけてます。討ち入りはするんですか?」の声。死にたくない内蔵助の回答はあやふや。討ち入り当日も逃亡したがっていたが、ギリギリになって「自分たちは未来で生きているんだな」と未来に確認すると、ヤル気になって出陣。未来では沢山のブースから各国の歴史上の人物に電話をかけていた…。


チョンマゲの世界に携帯電話、という絵柄が思い浮かんだ時点で「なんとなく面白そう〜」と満足して思考停止してしまったのではあるまいか。この作品を助けてるのは中井貴一の孤軍奮闘。そして、絵作りもきれいだし、音楽や編集の仕方など、周囲はコレをおもしろくしようと努力されてるし、うまくいってる。だからWEB上のレビューでこの映画を「面白い」と言ってるコメントを見ると、まさにだいたいこの「着想」と「雰囲気」と中井貴一だけが評価されている。

しかしお話のほうが設定、ギャグ、ストーリーに、まったく特筆すべき点がない。

そんなに辛い言い方をしなくても、もともと視聴者の要求レベルが高くない「世にも奇妙…」なんだし大目に見ても、なのだが、情報戦である討ち入り計画に携帯という必殺道具が浪士側に手に入るのだから、忠臣蔵ファンとしてはタイトルだけ聞いた時点でいろいろ想像力をかきたてられワクワクするが、その想像のほうがあまりにも本編より面白いので、実際見るとその「行き届かなさ」がほんとうにもったいなくって、ガッカリするのです。タイトルから受ける期待と中身のガッカリの振り幅はAVレンタルを失敗したそれに匹敵する。

尺の問題もあっていろいろはしょらなきゃいけない制約はわかるが、それにしてもコレが最良だろうか?そもそもこういう「トワイライトゾーン」的な番組は「お話」がまず肝心要なんじゃないんでしょうか。

だって、たった一台だけ未来とつながってるツールを内蔵助ただ一人に持たして一方的に未来人が何度も同じ事を聴くためだけに電話かけてくるんなら、多機能*が自慢の「携帯電話」である必要がまったくないのだ。ケータイあるあるなネタも、使わずじまい。ぶっちゃけ「忠臣蔵」が題材である必要性も全然なし。*もっとも、2000年当時では写メやワンセグはまだ普及してない。


そもそも脚本家自身が携帯電話で300年前の内蔵助に聞きたいことがまったく無いのだろうと思う。


どっかのサイトにこんな記録を見つけた。

「ナニワ金融道」で忙しい脚本家・君塚良一氏はこの仕事をいったんは断ったのに、プロデューサー氏が「ジェームス三木さんも、一流の脚本家はみんな忠臣蔵を一度は書いてるんですよ」と説得したという。

…つまりはそんないきさつで売れっ子脚本家に無理に押し付けたおかげで、まことにお気の毒にしあがったわけだ。

作った人たちが悪いのではなく、「携帯忠臣蔵」が背負ったバック・グラウンドが不幸だったのだろう。「コレも運命か…。」


原作について

「携帯忠臣蔵」を見て、「原作:清水義範 識者の意見」というクレジットに興味を持ち、早速光文社文庫「昭和御前試合」という短編集を手に入れて読んでみた。

7ページくらいの、ホントに短編だが、とにかく、ふつうに面白い。ぶっちゃけ内容は映画とずいぶん違う。原作(原案?)がどう面白かったか話し始めると、また「携帯忠臣蔵」のどこがまずかったかのハナシが長くなりそうなのではしょるが、先に書いた「一方的に未来人が何度も同じ事を聴くためだけに電話かけてくるんなら、多機能が自慢の「携帯電話」である必要がまったくない」という部分とか内蔵助に交信してくる必然性は原作では見事にクリアされてる。簡単に言うと「携帯電話」ではなく「時間話」という、テレパシーに近い手段で未来人は交信してくる。その目的も映画よりはるかにばかばかしくて面白い。ラストもセンスがある。

この短編が喜劇として成立してるのは、内蔵助が内蔵助然としているからだ。まじめに討ち入り決行しようとしてる人に、チョイチョイ未来から邪魔が入るからアンバランスで面白い(いわゆる緩急(かんきゅう)という、お笑いの基本であります)。

映画のように、おちゃらけたオッサンに携帯がかかってきても絵ヅラは「さもあろう」といった意外性のないおもむきである。

おっと、いかん、結局映画の苦言が始まってしまった…。