イヌの仇討

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2018年9月13日 (木) 09:07時点におけるKusuo (トーク | 投稿記録)による版

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作品概要
制作会社 こまつ座
公開年度 1988年
内蔵助役 ---
評価 3ツ星
公開(再演)当時のチラシ


井上ひさしのお芝居。

80年代のお芝居だが見たのは2017.7月。新宿・紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAでの、29年ぶりの再演。


<あらすじ>

赤穂浪士の急襲から逃れた吉良上野介と、彼を守る用人・清水一学ら3人、女中ふたり(ひとりは将軍綱吉から拝領したイヌと座布団を抱えている)。側女ひとりにばあやが一人、炭置き部屋(と味噌蔵をつなげた隠れ部屋)に逃げ込み、身を潜める。

そこにそもそも身を隠していた泥棒や、出たり入ったりして実況報告をする牧野春齋をまじえ、最初おびえていた吉良が次第に大石内蔵助が「なにをしに来たのか」の本質を解釈し始め、死を覚悟するまでが描かれる。


ストレートに面白く、ともかく日本語のチョイスが、うれしくなるくらい豊か。(<井上ひさしさんのファンなら当たり前とお思いになるにちがいないが)

構成や笑いのこしらえは見事で品があり、キャラ設定に無理がない。場面転換は一切無いのに見応えもじゅうぶん。ちょっと井上ひさし作品にハマりそう。


なのに星3つ。


このオハナシは、観客にとって(あるいは世間の風潮が)四十七士の討ち入りが「義士の義挙」であると当たり前に思ってる前提があるからこそなりたつのだが、こんにちにあっては忠臣蔵離れがヒドいのと、知ってる人は知ってる人で吉良に対して同情的になってきていることから2017年は向いてなかったのかもなどと思った。

そうした風潮に食傷気味のあたしには、たとえば「わたしが浅野の腹を切らせたわけではない。かたきを討たれる筋合いはない」という吉良の主張は当時は斬新だったかもだがもう、個人的には最近聞き飽きている。(誤解してほしくないがお芝居全体はけっして陳腐に色あせてはいない。例えが伝わらないかもだが、高級なカレーライスをディナーで出されて本当はうれしいのに心のなかで「昼もカレーだったんだよな」と思っちゃったから三ツ星、みたいな、そういう個人的気まぐれとお察し願いたい(笑)。)

かと言って現代風にアレンジしたりせず初演当時と同じ内容(<要確認。ちなみに'88年版のはラジコンじかけだったとか。本作では手踊り人形)のものを観られたのは嬉しかったが、上記のような感覚は残った。


で、「赤穂義士のおこないは正義なのか?」という疑問を投げかけるために吉良視点で松の大廊下からXデーにいたるまでを台詞でおさらいして赤穂藩の有り様や幕府、町民などの矛盾点などを突いていって痛快なはずなのだが、そこに説得力を持たせるために吉良上野介を完全に「善人」に仕立て上げてしまったことがいささか鼻についた。(同時に四十七士を少し落としている。)

強欲で上杉家家臣からもウザがられたり、親類からも逆上されそうになったりしたという吉良上野介についての性格がアレな人物像や、名家で重責をになってるだけに超いばりん坊の「高家衆」の有り様など(詳細は歴史を研究している方たちの著作物でごらんいただくとして)、すべて無かったことにして家来たちみんなから好かれてる好人物にアレンジしている。

さらに、浅野は小刀を振り舞わしたりせずぶつかって自分を首尾よく殺せば苦労はなかったと、すっごく潔い吉岡流免許皆伝の「武士」としてのふくらませよう。

コレ、今回吉良を演じているのがわたしの好きな大谷亮介=「相棒」のトリオ・ザ・捜一から抜けたベテラン刑事=だったからワクワク観ていられたようなものの、虫の好かない役者だったらアウトな(やりすぎ)設定である。(初演はすまけいさんだったらしいがそれも良いなぁ。)

やがて吉良は、あれだけ尽くした将軍が自身の片落ちの裁定を棚に上げて世情(浅野びいき)の人気を優先して自分を本所深川なんぞに厄介払いしたと解釈しはじめるのと、大石がやろうとしていることが仇討ちではなく幕府への反逆と理解し始めることとうまくリンクしてきて、こうなったら討ち入りをとことん美談にするために喜んで死んでやるとばかりに炭小屋を飛び出す。幕府のイヌとして働いてきた吉良への仇討である。


なんというか、ととのいすぎ。


さりとてコンパクトな構成でこの重厚なテーマをコミカルにパッケージしたのは見事としか言いようがなく、お芝居としては満点。

きれいごとすぎるのは「赤穂義士伝」の常套手段だから逆をやったと思えばまあ、胃の腑に落ちまする。