「もりいくすお」の版間の差分

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新宿の成城高校(先輩に、'''[[清閑寺熙定|清閑寺中納言]]'''を演じた上原謙や'''[[千坂兵部]]'''その他を演じた[[丹波哲郎]]。[['''間十次郎''']]の子孫でアナウンサーの羽佐間正雄氏がいる)の学生時代、ぴあに毎号似顔絵パロディイラストを読者投稿して掲載してもらうなどしていたが、ある日、縁あって「仮面ライダー」や「'''マンガ日本の歴史・忠臣蔵と生類憐み'''」で有名な石ノ森章太郎先生にマンガを見てもらい、悪く言われなかったことですっかりその気になり絵描きの道を目指す。   
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新宿の成城高校(先輩に、'''[[清閑寺熙定|清閑寺中納言]]'''を演じた上原謙や'''[[千坂兵部]]'''その他を演じた[[丹波哲郎]]。'''[[間十次郎]]'''の子孫でアナウンサーの羽佐間正雄氏がいる)の学生時代、ぴあに毎号似顔絵パロディイラストを読者投稿して掲載してもらうなどしていたが、ある日、縁あって「仮面ライダー」や「'''マンガ日本の歴史・忠臣蔵と生類憐み'''」で有名な石ノ森章太郎先生にマンガを見てもらい、悪く言われなかったことですっかりその気になり絵描きの道を目指す。   
  
  

2009年5月11日 (月) 03:42時点における版

2008.11月大石神社にて
2009.01忠臣蔵カフェ開催(さと和さん)にて

もりい くすお(男性、1965年11月23日 - )は、日本のイラストレーター。「作画屋」と名乗っている。

書籍、雑誌等の印刷物、テレビなどのメディアに絵を提供している。


生い立ち/履歴

東京都港区・東京慈恵会医科大学附属病院(畳替え事件の増上寺の近所)で生まれ、品川(勅使、院使を出迎えた地)で育つ。品川と言うと聞こえが良いが最寄りは片岡源五右衛門を演じた郷ひろみの育った大井町である。


先祖は大石内蔵助の閑居があった京都の山科のそばの出だと勘違いしていた時期があったが(高祖母が木村荘平の愛妾だったから)、実際は伊達家のお屋敷があった麻布は仙台坂のそばのおっさんの子孫だった。

父親は「仮名手本忠臣蔵はフィクションだからいいが、いかにも史実であるかのように家柄の良い高家筆頭の吉良上野介を悪者に仕立て上げる映画の忠臣蔵は嫌いじゃ!」と、アンチ忠臣蔵のアキバのデザイン会社の取締役で、母親は村上喜剣の出身地、薩摩と反対側の福岡出身で、「忠臣蔵」と聞いても「はぁ、時代劇ね」というくらいの経理事務の人。そういう家柄に育つ。


小学生時代、ジョーズやタワーリングインフェルノや犬神家の一族にすっかりしびれて映画狂になるが、いろいろ映画館に見に行った作品の1本に深作欣二の「赤穂城断絶」があった。その時はハマりはしなかったが、いわばもりいくすおの忠臣蔵バージンを奪ったにくいヤツである。パンフレットにはそれまで公開された過去の忠臣蔵映画のスチルがたくさん載っていて興味深かった。

テレビランドや小学四年生、五年生に投稿して絵を掲載してもらう印刷初体験。おはようこどもショーのコーナーでつボイノリオの背景に絵を採用されたのが放送初体験。

あまりに勉強しないので、親に漫画本のすべてを破棄されるが手塚治虫だけは読んでいいというおふれが出る。


中学時代は落語にはまり、その中の1本、「中村仲蔵」を聴きながら、創作の魅力をあれこれ想像し、おはなしに出てくる定九郎ってどんなんだろうと思いをはせた。

アメリカの風刺雑誌MADと巡り会い、モート・ドラッカーの作風に憧れる。学園祭で16ミリフィルムでアニメを撮影した。


新宿の成城高校(先輩に、清閑寺中納言を演じた上原謙や千坂兵部その他を演じた丹波哲郎間十次郎の子孫でアナウンサーの羽佐間正雄氏がいる)の学生時代、ぴあに毎号似顔絵パロディイラストを読者投稿して掲載してもらうなどしていたが、ある日、縁あって「仮面ライダー」や「マンガ日本の歴史・忠臣蔵と生類憐み」で有名な石ノ森章太郎先生にマンガを見てもらい、悪く言われなかったことですっかりその気になり絵描きの道を目指す。


高校卒業後は、渋谷の専門学校桑沢デザイン研究所(先輩に田村邸跡で切腹最中を売る新正堂さん)でグラフィックデザインを学ぶ。課題の多さにヘトヘトになり押しつぶされそうになると浅草東宝に「クレージーキャッツ特集」をオールナイトで見に行っては正気をたもった。

在学中に、刃傷事件のあった江戸城の、内匠頭が駕籠で出てった平川門の近所の小学館の漫画週刊誌からデビュー。卒業してすぐクレイアーティスト、カワイイ学博士の森井ユカとの共同生活を浅草で始める。浅草は忠臣蔵がお家芸の国本武春先生が浪曲をされる木馬亭のある、仮名手本忠臣蔵などが公演される中村座がやってくる有名な東京の下町である。


3年ほどして菅谷半之丞の寓居していた谷中のそばに転居。しばらくいた。


デビュー以降

友人に助けられながら、クライアントに謝りながら、それなりにイラストレーター生活を続け、たまに広川太一郎さんのモノマネ(間十次郎の子孫の声優・羽佐間道夫さんおすみつき)で関根勤氏主宰のカンコンキンシアターのナレーションもお手伝いしつつ、台東区では10年以上営業を続けた。

デビュー当初は絵の具を使ったリアル絵を看板として、雑誌や広告にイラストを提供し、タカラトミーのプレステゲーム「ラーメン橋」のキャラデザインなどもした。

その後パソコン時代到来と共にコラージュマンガ(漫画と写真を合成したフュメッティ)でフェチ漫画を意気揚々と制作(あちゃら「フェチャイライトゾーン」)。当時の地上波で放送中だった「トゥナイト2」「タモリ倶楽部」などでフェチコメンテーターとしてしばしば本人が電波にも乗った。

その後はルポ漫画を得意とした家としてほうぼう出かけて作品にすることが多かった。(リクルートガテン「おしごと見聞録」/日刊ゲンダイ「見てきたマンマ」/三才ブックス裏ッ!「ピンポンダッシュ」/講談社モーニング「モーニング探検隊」など)


20〜30代は特に忠臣蔵を意識することもなく生きていたが、なぜか年末の忠臣蔵映画を録画したり、大河ドラマの「元禄繚乱」を毎週録画したりしていた。


やがて2005年、神崎与五郎が「美作屋善兵衛」を名乗って町民に化けていた、寺坂吉右衛門の墓のある、吉良上野介の愛人が住んでいた麻布に引っ越し新装開店。

自宅も転宅したがそこはたまたま、イタリア大使館(大石主税堀部安兵衛がお預けになった松平邸跡)の目と鼻の先だった。

(この時点で、まだ忠臣蔵にはハマっていない)

2006年、翌年亥年の年賀状に仮名手本忠臣蔵の五段目に出てくるイノシシを描こうとにわかに思いたち、友人に結婚のお祝いに似顔絵を描く代わりにと仮名手本忠臣蔵のDVDを無心。ここで初めて歌舞伎をじっくり見る(DVDだけど)。(結局年賀状は制作せず仕舞い。)


忠臣蔵WEB開店

そして運命の2007年末、北王子欣也の「忠臣蔵」のCS放送を見ながらいつも混乱する「忠臣蔵」の登場人物のメモをつけていたら、遂にハマってしまった

雑誌やテレビの似顔絵の仕事が多かったので、練習もかねて登場人物の役者絵を仕事の合間に描いていたら仕事中もオフも絵と向き合うこととなり、それが楽しいウォーミングアップになった。おかげでいつ仕事へのシフトしても筆が軽やかになり、気が進まない仕事が激減した。


そして突然熱くなった忠臣蔵への思いから1年弱。遂に2008年、たまったメモと役者絵を素材にして本サイト公開に至る。

ホームページの名前、くすやは討ち入りの前に四十七士が集まったそば屋の名前にちなんでつけました。自分の名前に似てたので。


サイト公開と同時にライターの柏木珠希さんのお声がけがあって、珠希さん経営の長屋カフェ「さと和」さんにて役者絵展を開催。堀内道場のあった小石川で1ヶ月半お世話になった。


ちなみに、座業ばかりで運動不足が続くもりいは数年おきに、看護士さんたちの人あたりの良い聖路加病院(鉄砲洲の浅野家お屋敷跡)で人間ドックをうけているが、たまに健康管理のためにウォーキングもする。片道20分の往復でスタスタ歩くが、折り返し地点は泉岳寺南部坂である。


めでたし、めでたし。


外部リンク