木村岡右衛門

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木村岡右衛門【きむら おかえもん】…陽明学者キャラ。なんだか僧侶キャラ的な記述もどっかにある。でも以下の記述内容では按摩。


 松の廊下事件後、両三日のうちに城明け渡しというある日、大森三郎右衛門という人のところで解散会をやってたとき、同輩の宮原大助(間瀬久太夫の甥)がよっぱらって内匠頭を「短慮」「軽輩」「匹夫」とののしり、しまいにゃ内蔵助もタワケ、木村も含め切腹しなかった連中はみんな不忠臣だとののしった(ちなみに自分はそういう連中を見切って再就職を決めてるから不忠臣にならないという考え方)。

 木村岡右衛門はその場で内匠頭や内蔵助をかばい、口論になるが、これをおもしろくないと腹を立てた宮原は帰り道を待ち伏せして木村に襲いかかる。が逆にやられてしまう。宮原は絶命するが木村も手傷を負う。ここで死んでは亡君の恨みは晴らせない。ということで、とりあえず同士である、死んだ宮原のおじさんにあたる間瀬久太夫のところに自首する。間瀬は甥の宮原の酒癖の悪さを知ってるし、木村はちゃんとした人だと知ってるし同士なので、甥の仇ではあるが(このへんが実に複雑な心境!)かくまう。

 さて、腹の虫が治まらないのは宮原一家。お父さんが殺されて犯人はたぶん宴会でもめてた木村だと思っており、医者のコメントからおじさんがかくまってることを察した宮原の息子・市之丞(14)が間瀬の屋敷に乗り込んでくる。間瀬は市之丞を木村に会わせまいとするが、そこでの押し問答を聞いていた木村は息子の孝道に感激して自分から出て行って討たれてやろうとする(間に入ってる間瀬がたいへんですな、こりゃ)。「今日のところは帰って父親の仏事供養をいとなめ!仇討ちは時節を待て!な!」と説得され市之丞は帰ります。

 赤穂城の引き渡しが済んだある日、市之丞が田んぼで木村に斬りかかる「親のカタキ!」。しかしいま討たれるわけにもいかないと「今しばらく拙者の命をお預けくだされい!」と市之丞を田んぼに放り込んで逃げちゃう。

潜伏中は芝口三丁目で木下玄齋の名で導引揉み療治の看板を出していた。

 討ち入り後、市之丞は(たぶん前世の宿縁で)超〜偶然にも木村がお預けになってる松平家に就職してたので再会を果たす。「憎い木村岡右衛門…討ち入りなんかしちゃあ、親のカタキができないじゃんか…誠忠の武士になんで刃が向けられましょう」と泣いた。それどころか「市之丞君だって長年浅野家のご扶持を受けてたんじゃん。亡君の恨みを晴らした木村さんにお礼を言ってもいいくらいなんじゃない?」とかぶせるように松平家の家臣坂口さん。そばで見ていた安兵衛が「父親の敵に礼を言うなんてヘンですよ。木村さん、討たれてあげりゃいいじゃん」この頃から木村と市之丞に妙な友情が芽生え始め、一同切腹の折、岡右衛門のリクエストで特別に市之丞に介錯がゆるされました。


以上は講談だが、実際に木村岡右衛門は松平家の宮原久太夫というひとに介錯してもらってる。宮原さんは自分が介錯した岡右衛門と大高源五の遺髪を地元・松山(松平家は伊予松山藩)に持ち帰り、菩提寺・興聖寺(こうしょうじ)に供養塔を建ててそこに埋めたそうです。お墓は現在も残っていて松山義士祭というイベントがいまもあります。


大坂の妻へ「今夜討ち入ります。50人くらいだからみんな死んじゃうかもだが、侍の女房なんだから嘆かないでほしい。主君のために死ぬのなら本望です。あなたも早々に再婚してください。私が死んで50日経ったらお似合いの人ときっと結婚してくださいね」という内容の遺書を送ってる。

討ち入りのユニフォームに生前に作ってもらった法名もクレジットしていたのはこの人だけ。兜の中には自分で作った漢詩を縫い込んでいた。

腰が抜けた小坊主に「水をくれ」とたのんでいる。

石田左膳という名で堀部安兵衛の借家に住んだ。

享年46。